田辺鐘太郎を創業者とする田辺楽器についてネット上に間違った情報が氾濫している為、田辺楽器について説明ページを設けます。(社名は時代によって複数あるが特に時代を指定する必要のない場合は田辺楽器と記載する)
先ず創業者の田邊鐘太郎(カネタロウではなくショウタロウ)は慶応2年に佐倉藩士の家に生まれ。明治30年代に三男を儲ける(千次、二郎、勝三)。明治39年までは薪炭業を営んでいた。
田辺楽器は明治30年創業とされているが当初は佐藤龍太郎を所長とする三田軍楽器製造所と言う別の会社であった。(海軍の?)楽器修理や信号喇叭製造をしていたが日露戦争終結後から経営が傾き、明治39年11月3日より懇意にしていた薪炭商の田辺が経営を全面的に引き受け田辺の楽器製造が始まった。
明治40年11月3日三田の軍楽器製造所を閉鎖し麻布六本木一番に田辺吹奏楽器製造所を移転発足させた。
大正3年の東京大正博覧会にクラリネット、コルネット、ホルンを出品している。大正期は江川楽器が陸軍用の信号喇叭の納入に追われる中、田辺が製造及び修理で民間向けの管楽器の多くを占めていた。
昭和に入り事変の影響で管楽器が売れ始める。昭和9年には日本管楽器より3年早く日本初の国産スーザフォンを、翌10年には日本管楽器より1年早く日本初の国産サックスを完成させた。サックスはコーンとブッシャーを参考に設計された。
昭和11年5月18日瀬戸口藤吉考案の旋律鼓笛喇叭隊を発表。(瀬戸口藤吉は住まいが近く田辺と懇意にしていた)
昭和12年1月1日より田邊吹奏楽器製作所が株式会社に。
昭和13年世田谷区新町に玉川工場竣工。新橋2丁目2番地に本社を建設。1月22日田邊吹奏楽器株式会社に社名変更。5月バンドの友創刊。
昭和14年4月5日鴬声社日暮里工場を買収し田辺リード楽器を発足。メッキ工場は田辺理化工業に。
昭和14年8月5日大日本吹奏楽報国会を結成。事務局は田辺広報の佐藤香津樹。顧問は瀬戸口藤吉。
昭和15年6月5日東京喇叭製造工業組合認可。これは日管、田辺、小椋などが物資配給の為に結成。
昭和17年4月19日田邊鐘太郎没
昭和19年田辺精工と社名を変更し軍用の通信機器を製造。
昭和20年8月15日終戦。玉川工場以外全て空襲で喪失。
昭和21年輸出振興の為田辺はハーモニカ作りに。茨城県荒川沖にハーモニカ工場を。(産業復興公団がハーモニカ輸出に多額の助成金を出していた)
昭和22年従業員400から100に削減。田辺に労働組合発足。22年暮れ、ハーモニカ輸出停止。田辺への融資取り止め。
昭和23年青山楽器商会発足(田辺から青山氏が独立、後の東京管楽器製作所)
昭和26年磯崎管楽器工業所開業(田辺から磯崎氏が独立)
昭和27年不安定な経営により田辺管楽器倒産。
昭和29年宮本太鼓店を主軸に田辺楽器(株)が発足。桜井歳朗が専務取締役。宮本堅二が社長。工場は田辺二郎が指揮。全音と契約。(昭和30年代に田辺管楽器株式会社に社名変更されている)
トランペットS型。昭和30年代の製品で上からタナベ、コンドル(磯崎)、カワイの刻印だが製造は同一工場。
昭和37年8/2田辺二郎没。田辺勝三独立サックス製作(田辺管楽器研究所)
昭和38年10月田辺管楽器、河合管楽器株式会社に吸収合併。
昭和45年全音への信号喇叭仲介業務のみ存続していたがこれも終了し田辺楽器の歴史が終わる。
よく田辺は昭和30年倒産との情報が出回っているが、現存する田辺製品の半分以上はそれ以降、昭和30年代の製品である。